IE9ピン留め
2010年 08月 04日
詩146篇 「目をあける」 פָּקַח パーカフ
?????? パーカフ

・8節「主は盲人の目をあけ、主はかがんでいる者を起こされる。」(新改訳)
・8節「ヤーウェは目しいた者の眼を開き、」(関根訳)

Keyword;「目をあける」 詩篇では146:8のみ、open, gives sight

◆神の統治とはいかなるものか、それが7節以降に記されています。そのうちのひとつ、「目をあける」という主の恩寵に注目したいと思います。「目をあける」と訳されたパーカフ??????(paqach)は、旧約で21回、詩篇では1回のみです。回数は1回でも神の救いの恩寵においては、きわめて重要な動詞です。この動詞が初めて登場するのは創世記3章です。「あなたがそれを食べるその時、あなたがたの目が開け、あなたがたが神のようになり、善悪を知るようになることを神は知っているのです。」(3:5)。「このようにしてふたりの目は開かれ、そこで彼らは自分たちが裸であることを知った。」(3:7)

◆罪の結果として開かれた目は、霊的には「盲目」となったということを意味します。サタンによって人は、生まれながらにして「盲目」なのです。その「盲目」となった目を再びあけることは、神によってしかできません。

◆旧約では、エリシャの時代に馬と戦車の軍隊がある町を包囲したとき、それを見た若者は恐れました。するとエリシャは彼に「恐れるな。私たちと共にいる者は、彼らと共にいる者たちよりも多いのだから。」と言います。そしてエリシャは主に祈ります。「どうぞ、彼の目を開いて見えるようにしてください。」すると、その若者はなんと火の馬と戦車がエリシャを取り巻いているのを見ました。主は人を盲目にすることも、開眼することもできのです。

◆イスラエルの回復の預言をしている有名なイザヤ書35章には、「神は来て、あなたがたを救われる。その時、盲人の目は開かれ・・」とあります。これはメシアによってのみ実現される神の祝福です。そして、イエス・キリストが来られて、生まれつきの盲人の目が開かれました。ヨハネの福音書9章にその出来事が記されています。そこでイエス・キリストはこう言われました。「わたしはさばきのために来ました。それは、目の見えない者が見えるようになり、見える者が盲目となるためです。」(ヨハネ9:39)

◆「わたしに何をして欲しいのか」と尋ねるイエスに、盲人バルテマイが「主よ。目が開かれることです」と言ったように、私たちもそのように祈りたいものです。この御わざはメシヤなるイエスの独占行為なのです。

◆類義語に、目を「開いて」と訳されたガーラー??????(galah)があります。旧約で189回も使われながら、詩篇ではわずか4回ですが、「覆いを取り払う、明らかにする、啓示する、隠れていたものが現われる、裸になる」という意味です。18:15/98:2/119:18, 22。

# by taste_hebrew | 2010-08-04 15:30 | 救出用語
2010年 07月 09日
詩132篇 「望む」 אָוָה アーワー
????? アーワー

・13節「主はシオンを選び、それをご自分の住みかとして望まれた。」(新改訳)
・14節「これはとこしえに、わたしの安息の場所、ここにわたしは住もう。わたしがそれを望んだから。」(新改訳)

Keyword;「望む、好む、慕う」 desire, long for 45:11/106:14/132:13, 14/

◆「望む」と訳されたアーワー?????(’awah)は、旧約で26回、詩篇では4回使われています。本来の意味は、人間のむき出しの欲望を表わします。エジプトから脱出した民たちが、荒野で神が与えたマナに満足することなく、激しい欲望にかられて、「ああ、肉が食べたい」と言ったことで、神はうずらを与えます。しかし「肉が彼らの歯の間にあってまだかみ終わらないうちに、主の怒りが民に向かって燃え上がり、主は非常に激しい疫病で民を打った。」(民数記11:33)とあります。

◆他の例としては、ダビデ王がアドラムのほら穴にいたとき、しきりに望んでこう言いました。「だれか、ベツレヘムの門にある井戸の水を飲ませてくれたらなあ。」するとダビデの三人の勇士が、ペリシテの陣営を突き抜けて、いのちがけで水を汲み、ダビデのところに持ってきました。しかしダビデはそれを飲もうとはせず、それを主にささげました。そしてこう言いました。「主よ。私がこれを飲むなど、絶対にできません。いまのちをかけて行った人たちの血ではありませんか。」(?Uサムエル23:15~17) ダビデの三勇士の物語ですが、ダビデが「しきりに望んで」と訳されている箇所には、アーワー?????(’awah)が2回繰り返されています。

◆しかし詩篇132篇では、ダビデが全イスラエルを統一するための拠点としたシオンを神がご自分の住まいとして「望まれる」という神の恩寵としての意味で使われています。とても珍しい箇所です。シオンにはもともとエブス人が住んでいた自然の要害でしたが、ダビデはそこを戦い取りました。そしてそこに神の契約の箱を設置する粗末な幕屋(―これが「ダビデの幕屋」と言われるものですー)を建てて神を礼拝したのです。それ以来、「シオン」はきわめて重要な場所となりました。また、シオンは「エルサレム」の別名でもあります。

◆シオンは、地形的には「難攻不落の堅固な要塞」です。東には険しい峡谷、南と西には外敵に対する砦が築かれていました。聖書は他の山々にまさってシオンが特筆されます。その理由は、そこにダビデの幕屋が置かれたことと、そこに神が住まれ、主の臨在が満ちあふれていたからです。「主にほめ歌を歌え、シオンに住まう方に。」(詩篇9:11) 「主は大いなる方。大いにほめたたえられるべき方。その聖なる山、われらの神の都において。高嶺の麗しさは。全地の喜び。北の端なるシオンの山は大王の都。神は、その宮殿で、ご自身をやぐらとして示された。」(詩篇48:1~3) まさに、シオンは特別な場所なのです。

# by taste_hebrew | 2010-07-09 03:14 | 愛顧用語
2010年 05月 24日
詩119篇 (3) 「いつくしみを施す」
יָטַב ヤータヴ

・68節「あなたはいつくしみ深くあられ(טוֹב)、いつくしみを施されます(יָטַב)。」(新改訳)

Keyword;「善を行なう、幸いな暮らしをする、しあわせにする、喜ぶ、よくしてやる」
33:3/36:3/49:18/51:18/69:31/119:68/125:4  go well, do well, make prosper,

◆「いつしみを施す」と訳されたヤータヴיָטַב(yatav)は、旧約で115回、詩篇では7回使われています。新改訳では36:3, 51:18, 119:68, 125:4は神の恩寵用語として「いつくしみを施す」と訳され、69:31は「主を喜ばす」という礼拝用語として使われています。33:3は「巧みに(skillfully)」弦をかき鳴らすという礼拝用語として訳されています。

◆このヤータヴの本来の意味は、神が良い方であり、私たちに良いことしかなさらない方であるということです。この土台に立って、その神の善に与る者も、神に対して良いもの、最善のものをささげて神とかかわるという意味があります。33:3の「巧みに」というのもその現われです。創世記4章に登場するカインはそうしたかかわりをもって神にささげものをしなかったゆえに、主から「あなたが正しく行なったのであれば、受け入れる」と暗に叱責されていますが、その「正しく行なう」ということばがヤータヴです。つまり、弟のアベルとは違って兄のカインは、神に最良のものをささげなかったことが指摘されているのです。本来ならば、神はいつも良いことをしてくださるので、私たちに対しても良いささげものがなされることを期待しておられるのです。

◆神が「いつくしみを施し」てくださることで、幸いな暮らしをすることができます。神は神の民である者に対して、生存と防衛の保障を与えることをだれよりもよしとする方だからです。私たちとかかわる者も私たちに「よくしてくれる」ことがあります。しかしそれはしばしば利害関係が絡んでいるかもしれません。純粋に良いことをしてくださるのは神のみです。また、私たちが「良い」と思うことも、短絡的に考えていることがあるかもしれません。一見、不幸な出来事に遭遇したり、貧乏くじを引いたような境遇に置かれたりするような決して良いとはいえないように思えるときがあります。しかし、神の「いつくしみ」は、私たちの思いを超えて、すべてのことを相働かせて益としてくださるのです。

◆ヤコブは、かつて騙した兄エソウが400人を引き連れて迎えに来られることを知って不安にかられて、「わたしは必ずあなたをしあわせにする(יָטַב)」と言われた主の約束を握って、必死で祈っています(創世記32:9, 12)。ヤコブの不安は取り越し苦労だったのですが・・。


◆ヤータヴיָטַב(yatav)は、申命記とエレミヤ記の特愛用語です。申命記は約束の国に入ろうとしている第二世代の者たちに向かってモーセが語った訣別説教です。そこには、神の民が「しあわせになる」ために、神の命じるすべての道を歩むように何度も繰り返して語っています。神は私たちがしあわせになることをだれよりも望んでおられる天の父です。すべての良いものは、天の父から来るのです。この方を自分の父として持つ者は幸いです。

# by taste_hebrew | 2010-05-24 14:48 | 賦与用語
2010年 05月 12日
詩119篇 (4) 「形造る」 
????? クーン

・73節「あなたの御手が私を造り、私を形造りました。」(新改訳)
・73節「あなたのみ手がわたしを作り、わたしを固くした。」(関根訳)

Keyword;「堅くする、堅く立てる」 set up, make firm, establish, 119:5, 73, 90, 133/

◆73節にある「あなたの御手が私を作り、私を形造りました。」ということば、前者の「あなたの御手が私を作り」とは、私を創造されたという意味です。しかし、後者の「私を形造る」というのはどういうことなのか、この訳ではイメージがつかめません。しかし原語を調べるてみると、ここで使われている動詞はクーン?????(kun)で、「堅く立てる」「堅く据える」という意味です。このことばが礼拝用語、つまり、人から神に向けられた意味になりと、「ゆるぎません」「定まりました」という意味になります。

◆詩119篇73篇は恩寵用語として使われています。詩篇119篇では、他に3回使われています。「どうか、私の道を堅くしてください。あなたのおきてを守るように。」(5)。「あなたの真実は代々に至ります。あなたが地を据えたので、地は堅く立っています。」(90)「あなたのみことばによって、私の歩みを確かにし、どんな罪にも私を支配させないでください。」(133)

◆このように、クーム?????のイメージは、私を神の御前にしっかりと立たせる、堅く立たせる、確固とした、不動の者としてくださるというイメージです。これはまさに神が私の創造者であるゆえに可能なことであり、人だけでなく、神が選んだ都であるシオンに対しても、同様に、神はとこしえに打ち立てられるのです。

◆信仰によって堅く立つことの大切は、新約時代の私たちにも語られています。使徒パウロはこう述べています。
「あなたがたを堅く立たせる事のできる方」(ローマ16:26)。
「神に感謝すべきです。神は、私たちの主イエス・キリストによって、私たちに勝利を与えてくださいました。ですから、愛する兄弟たち、堅く立って、動かされることなく、いつも主のわざにはげみなさい。あなたがたは、自分たちの労苦が、主にあってむだでないことを知っているのですから。」(?Tコリント15:57~58)

◆使徒ペテロも同じくこう述べています。
「あらゆる恵みに満ちた神。すなわち、あなたがたをキリストにあって、その永遠の栄光の中に招き入れてくださった神ご自身が、あなたがたをしばらくの苦しみのあとで、完全にし、堅く立たせ、強くし、不動の者としてくださいます。(?Tペテロ5:10)。

◆使徒ユダも手紙の最後に次のように述べています。
「あながたをつまずかないように守ることができ、傷のない者として、大きな喜びをもって、栄光の御前に立たせることのできる方に、栄光、尊厳、支配、権威が、永遠の先にも、今も、また世々限りなくありますように。アーメン」(24, 25)

# by taste_hebrew | 2010-05-12 19:29 | 育成用語
2010年 04月 14日
詩119篇(2)「(目を)開かせる」
גָּלָה ガーラー

・18節「私の目を開いてください。私があなたのみおしえのうちにある奇しいことに目を留めるようにしてください。」 (新改訳)
・18節「わたしの目の覆いを払ってください。あなたの律法の驚くべき力に、わたしは目を注ぎます。」(新共同訳)

Keyword;「開く、覆いを払う」 to uncover, reveal, open, 18:15/98:2/119:18, 22/

◆目を「開いて」と訳されたガーラーגָּלָה(galah)は旧約で189回も使われながら、詩篇ではわずか4回です。「覆いを取り払う、明らかにする、啓示する、隠れていたものが現われる、裸になる」という意味ですが、同時に、「移す、捕囚に行く、捕囚に連れて行く」という意味もあります。捕囚という経験によって視点が移されることで初めて明らかにされるという意味あいです。イスラエルの民は、まさに捕囚の経験を通して、神によって賦与されていた「律法」(神の教え)の中に隠されているすばらしい神の祝福、その驚くべき素晴らしさに目が開かれたのでした。

◆そのすばらしさを作者は、「私の喜び」(シャアシュイームשַׁעֲשׁועִים、動詞はシャーアーשָׁעַע)と表現しています。この表現は、旧約においては5回、しかもその5回はすべて詩119篇にあります(23, 77, 92, 143, 174)。このことは何を意味するのでしょうか。おそらく、この喜びはイスラエルの民をリセットすべく捕囚を許された神によって、彼らの霊の目が開かれて、その教え(トーラー)のすばらしさに目が開かれたことによるものです。しかも、ヘブル語では普通、「喜び」を表わす語彙がサーマフשָׂמָח―(joy, rejoice)であるのに対して、ここでの「喜び」はシャーアーשָׁעַע―(delight)です。前者の「喜び」は、ある特別な事柄、経験によるものであるのに対して、後者の「喜び」は日常的な喜び、楽しみを意味します。

◆トーラーが日常的な「喜び」「楽しみ」であるということは、そのすばらしさにいつも心が開かれ、それに目を留め、それを慕い求めるトーラー・ライフスタイルが築かれていたことを物語っています。「楽しみ」というのは、時間を忘れさせるだけでなく、創造性を引き出す力です。疲れることを知りませんし、より豊かな発想や着想が生まれる源です。

◆ところで、目を「開いて」と訳されたガーラーの使用例として、民数記22:21~35節をあげることができます。バラムに忠実に仕えて来たろばがバラムの足を石垣に押しつけたり、うずくまったりしたことで、バラムは怒ってろばを杖で打ちました。「そのとき、主がバラムの目のおおいを除かれたので、彼は主の使いが抜き身の剣を手に持って道に立ちふさがっているのを見た。彼はひざまずき、伏し拝んだ。」とあります。「目のおおいを取り除かれ」なければ、バラムはモアブの王バラクの指示によってイスラエルの民を呪うところでした。ところが、神はろばを通してバラムの行こうとする道をふさいで阻止させようとしたのです。バラムの目が開かれたことによって、彼は神のみこころから外れることを免れたのでした。

# by taste_hebrew | 2010-04-14 14:27
2010年 04月 06日
詩119篇(1) 「仰せつける 」
צָוָה   ツァーワー

・4節「あなたは堅く守るべき戒めを仰せつけられた。」 (新改訳)

Keyword;「仰せつける、命じる、定める」 command, direct, order,  lay down,
119:4, 138/7:6/33:9/42:8/44:4/68:28/71:3/78:5, 23/91:11/105:8/111:9/148:5

◆「仰せつける」と訳されるツァーワーצָוָה(tsawah)は、旧約で502回、詩篇では15回。その15回のうち詩119篇2回使われています。この動詞が聖書の最初に出てくるのは、創世記2章16節です。「神である主は人に命じて仰せられた。『あなたは園のどの木からも思いのまま食べてよい。しかし、善悪の知識の木からは取って食べてならない。それを取って食べるその時、あなたは必ず死ぬ。』の「命じて」がツァーワーצָוָהです。これは大切な命令として神が人のもとに置かれた教えでした。そこには人として生きる大切な教えを導くものでした。しかし、人はその神である主の教えを守ることなく、それを食べたのでした。

◆善悪の知識とは、自分で善悪の基準を決めることであり、それはまさに神のように生きることを意味します。神を信頼して従順に生きことの大切さが、神の命じる仰せの中に込められていましたが、それがないがしろにされてしまうことが起こりました。これが原罪と言われるものです。

◆神が私たち人間に仰せられる命令―そこには最も大切な事柄が含まれているのですが、私たちの方がそれを理解できないのです。アダムは神が「食べてならない」と命じておいた木から食べたことで、土地は呪われ、一生、苦しんで食を得なければならなくなり、その行く末は、ちり帰らなければならなくなってしまいました。

◆詩119篇4節の「あなたは堅く守るべき戒めを仰せられた」とあるのは、まさに神の恩寵なのです。人間の高慢は人からも神からもなんら指図されたくない、自分の思いのままに生きたい、それが自由だと錯覚していますが、神からの「堅く守るべき戒め」を知らずして、真の自由は得られないのです。ですから、詩119篇の作者は、このことを正しく受留め、感謝しているのです。同119篇138節には「あなたの仰せられる(צָוָה)さとしは、なんと正しく、なんと真実なことでしょう。」と告白しています。

◆モーセは神と人とが会見できる幕屋(あかしの幕屋とも呼ばれます)を造るように命じられました。幕屋には神が私たちとかかわりをもたれるためのありとあらゆる知識がそこに隠されています。それゆえ、モーセは神が命じられたとおりに造らなければなりませんでした。

◆ツァーワーצָוָה(tsawah)のギリシャ語訳はディアタッソー(διατασσω)です。使徒パウロはこのことばを使って、「主も、福音を宣べ伝える者が、福音の働きから生活を得るように定められておられます(διατασσω)」(Ⅰ コリント9:14)と述べています。

# by taste_hebrew | 2010-04-06 18:23 | 統治用語
2010年 03月 30日
詩118篇 「栄えさせる」
צָלַח ツァーラハ

・25b節「ああ、主よ。どうぞ栄えさせてください。」 (新改訳)
・25b節「ああ、ヤーウェ。どうか成功させてください。」(岩波訳)

Keyword;「栄えさせる、成し遂げさせる」 prosper, succeed,
1:3/37:7/45:4/118:25

◆ツァーラハצָלַח(tsalach)という動詞は、礼拝用語にも、恩寵用語にもなります。前者の礼拝用語として使われる場合には、「成し遂げる」「目的を果たす」「みごとに実現する」「勝利を得る」「繁栄する」という意味になります。恩寵用語として使われる場合には、「栄えさせる」「成功させる」「繁栄させる」「幸運な人にさせる」「成し遂げさせる」「幸いをみせる」という意味になります。

◆詩1篇3節では、主のおしえを喜びとし、昼も夜もそのそのおしえを口ずさむような人を、主は、水路のそばに植えられた木のように、「何をしても栄える」とありますが、それがツァーラハצָלַחです。ですから詩118篇25節の「主よ、どうぞ栄えさせてください」とは、「私のすることすべてを成功させてください。」ということになります。

◆ツァーラハצָלַחは旧約では55回、詩篇では4回と少ないのですが、イザヤ書ではとても重要な箇所に出てきます。特に、受難のしもべを預言する53章では、その苦難のしもべを砕いて、痛めることは主のみこころでした。イザヤ53:10には、「主のみこころは、彼(受難のしもべ)によって成し遂げられる。」とあり、そのしもべも自分のいのちの激しい苦しみのあとを見て満足する。」とあります。イザヤ55:11では、神は「わたしの口から出ることばも虚しくわたしのところに帰って来ない。必ず、わたしの望むことを成し遂げ、わたしの言い送った事を成し遂げさせる。」とあります。

◆イエス・キリストの十字架上で語った七つのことばの第五番目に、「わたしは渇く」というのがあります。確かに、キリストは一滴の水も口にすることができなかったため、そうした肉体的な渇きはあったものの、ここでいう「わたしは渇く」とはそのような意味合いではありません。イエスのいう「わたしは渇く」とは、換言するならば「わたしは神のみこころを実現したい。それを成功させたい。」ということです。これがイエスの言う「渇き」です。

◆壮絶な痛みと苦しみにもかかわらず、最後まで御父のみこころを実現することが御子イエスの食物であり、渇きをいやすものでした。そしてそれがもう目前に迫った時、「完了した」と叫ばれたのです。これはイザヤ53章の苦難のしもべが「自分のいのちの激しい苦しみの後を見て満足する」ということばと同義です。イエスはみこころを成し遂げた後、て「父よ。わが霊を御手にゆだねます」と言って息を引き取りました。

◆イエスこそ信仰の創始者であり完成者です。サタンの十字架の計らいは、それすらも神によってみこころを実現する機会とされてしまったのでした。

# by taste_hebrew | 2010-03-30 21:42 | 愛顧用語
2010年 03月 26日
詩117篇 「大きくする」
גָּבַר  ガーヴァル

・2節「その恵みは、私たちに大きく、主のまことはとこしえに至る。」 (新改訳)
・2節「主の慈しみとまことはとこしえにわたしたちを超えて力強い。」(新共同訳)
・2節「まことにかれの恵みはわれらを圧倒し、ヤーウェの真実はとこしえに」(岩波訳)

Keyword;「大きくする、圧倒する」rose,  triumph, great, strength, 12:4/65:3/103:11/117:2

◆「大きく」と訳されたことばは形容詞ではなくガーヴァルגָּבַר(gavar)という動詞です。旧約では25回、詩篇では4回使われています。その主な意味は「みなぎる」「増し加わる」増え続ける」という他に、「優勢になる」「圧倒する」「強くなる」「より勝る」「豊かである」という意味があります。後者の方がガーヴァルגָּבַר(gavar)の特徴をよく表わしています。似た語彙にガーダルגָּדַל(gadal)があります。これは神がアブラハムに語られたように「あなたの名を大いなるものとする」(to become great)とか、「主は王に救いを増し加える」(詩18篇50節)とあるように、数量的な成長や増加を意味します。しかしガーヴァルגָּבַרの方は、数量的ではなく、力、強さにおいて、力量的増強の意味で用いられます。

◆イスラエルの民を導くモーセは、荒野でアマレクとの戦いを余儀なくされます。そのとき、モーセの持つ杖が高く掲げられている時には、イエスラエルは優勢となり、その杖が下がると今度はアマレクが優勢となったという話があります。後に、使徒パウロは、「罪の増し加わるところには、恵みも満ちあふれました。」(ロマ5:20~21)と述べていますが、私たちの罪がどんな増し加わっても、あるいはどんな弱くても、神の恵みはそれ以上に勝って、注がれることを意味しています。

◆詩117篇2節の「その恵みは、私たちに大きく」も、敵がどんな力強かったとしても、あるいは状況がどんな厳しいものであったとしても、主の恵みはそれをはるかに超えて、圧倒的に力強いことを意味します。ちなみに、この詩117篇は「エジプト・ハレル」といって、イエス・キリストとその弟子たちが最後の晩餐、ないしは、ゲッセマネの園に向かう時に歌われました。これからイエスが「引き渡され」「苦しめられ」「殺される」という十字架への道を進んで行かれる時に、この歌はどんなに励ましとなったことでしょうか。

◆しかも、この詩117篇には「すべての国々よ、主をほめたたえよ」(1節)とあります。すべての「国々」(ゴイームגּוֹים)は異邦人とも訳されます。ユダヤ人のみならず異邦人も含んだ語彙です。ユダヤ人にとって4百年以上にもわたって異邦人に支配され、苦しませられたことで、異邦人が神に祝福されて賛美するということは考えられない状況でした。しかし神の救いの奥義は「ユダヤ人と異邦人とが共に共同の相続者となり、ともにひとつのからだに連なり、ともに約束にあずかるということでした。ですから、この歌を歌っていたイエスにとって、自分がこれから果たすべき目的がしっかりと意識されていたのです。

# by taste_hebrew | 2010-03-26 17:07 | 統治用語
2010年 03月 17日
詩114篇 「変える」
הָפַך  ハーファク

・8節「神は、岩を水のある沢に変えられた。堅い石を水の出る泉に。」 (新改訳)
・8節「神は岩を流れに、石を泉に変えられた。」(典礼訳)

Keyword;「変える、変えられる」 turn~into~, 30:11/41:3/66:6/105:25/29/

◆「変えられた」と訳されたハーファクהָפַך(haphakh)は、すでに詩篇41篇の恩寵用語として取り上げましたが、そこでは「病の状態から健康にするという意味で「完全にいやされる」という意味で使われていました。しかし詩114篇では石がのある沢に」「堅い石が泉」に変えられるという、普通ではあり得ない神の恩寵のわざとして用いられています。これはイスラエルの40年の荒野の旅路において経験したメリバでの神の恩寵が背景にあることは明白です。

◆新約時代においては、イエス・キリストの十字架の死と復活によって与えられる祝福として、私たちの堅い心の岩を打ち砕いて、泉となり、渇くことのない永遠のいのちへの水がわき出ることを、サマリヤの女に語りました(ヨハネ4:14)。この永遠のいのちへの泉とは、キリストを信じる者に与えられる聖霊のことです。

◆ハーファクהָפַך(haphakh)の本来の意味は、「ひっくり返す」「ひるがえす」「くつがえす」と訳されているように、不意打ちするかのようにある状況を一変させるという意味です。旧約では94回、詩篇では10回使われています。「暗黒を朝に変え、昼を夜にし」(アモス5:8)とあるように、祝福にも呪いにも使われます。呪いの用法としては、詩78篇44節に「神がそこの川を血に変えられたので、飲むことができなかった。」とあるとおりです。その呪いは完全なさばき(破壊)をもたらします。

◆祝福の意味で使われているいつくかの箇所を上げてみると・・・
①「・・主は、あたなたのために、のろいを祝福に変えられた。」(申命記23章5節)
②「あなたは私のために、嘆きを踊りに変えてくださいました。」(詩30篇11節)
③「神は海を変えて、かわいた地をとされた。」(詩66篇6節)
④「『わたしは彼らの悲しみを喜びに変え、彼らの憂いを慰め、楽しませる。・・わたしの民は、わたしの恵みに満ち足りる』」(エレミヤ31章13~14節)
⑤「悲しみが喜びに、喪の日が祝日に変わった月として、祝宴と喜びの日に互いにごちそうを贈り、貧しい者に贈りものをする日と定める」(エステル9:22)―これは現在もプリムの祭りとして祝われています。ハマンによるユダヤ民族絶滅の陰謀から救われたからです。

◆状況の変化だけでなく、人の心を変えることにも使われています。「民が逃げたことがエジプトの王に告げられると、パロとその家臣たちは民についての考え方を変えて言った。『われわれは何ということをしたのだ』・・・」(出エジプト14章5節)。「主は人々の心を変えて、御民を憎ませ・・た。」(詩105篇25節)。

# by taste_hebrew | 2010-03-17 16:14 | 救出用語
2010年 03月 12日
詩113篇 「身を低くする」
שָׁפֵל  シャーフェル

・6節「・・主は高い御位に座し、身を低くして天と地をご覧になる。」 (新改訳)

Keyword;「身を低くする」 humble, himble myself, 113:6

◆詩113篇にはきわめて特徴的なことばがあります。それは「身を低くして」と訳されるシャーフェルשָׁפֵל(shaphel)です。この動詞は旧約で30回、詩篇では4回です。この動詞の本来の意味は、神が高ぶる者を低くする、、引き下ろす、引き下げるこを意味します。神自ら身を低くするということは、ここ詩113篇のみです。非常に珍しい表現なのです。

◆神が天地を、つまり地だけでなく、天もみを 低くしてご覧になるわけですかせ、天よりも高い方であるということを示しいます。6節では「主は高い御位に座し」と表現しています。「だれが、われらの神、主のようであろうか。主は高い御位に座し、身を低くして天と地をご覧になる。」と、その驚きを表明しています。

◆「身を低くする」と訳されたシャーフェルをどういわけか省いている聖書もあります。口語訳では「遠く」、関根訳は「はるかに」と訳し、フランシスコ会訳、典礼訳、バルバロ訳では全く訳されていません。ちなみに、新共同訳は「なお低く下って」、文語訳は「己を低くして」、岩波訳では「低く下って」とシャーフェルשָׁפֵלを省かずに訳しています。

◆この詩113篇~詩118篇は、「ハレルヤ詩篇」と呼ばれ、過越祭など歌われていた詩篇です。イエスが最後の一週間の中で、最後の晩餐の後に弟子たちを連れて家を出て、ゲッセマネの園に行かれますが、そのときに歌った歌はこの詩篇歌集であろうと言われています。「主は、・・身を低くして」とは、まさにイエスが歌われた歌そのものを生きるべく、受難に向かって行かれる姿と重なります。

◆使徒パウロはピリピ人への手紙の中で、主ご自身が「身を低くされた」ことを次のように述べています。「キリストは、神の似姿であられる方なのに、神のあり方を捨てることができないとは考えないで、ご自分を無にして、仕える者のすがたをとりね人間と同じようになられたのです。キリストは人としての性質をもって現われ、死にまで従い、実に十字架にまでも従われたのです。」(2:6~8)―これが、神が「身を低くする」ことの本当の意味でした。

◆何の目的のために主みずから「身を低くされた」のか、詩113篇7, 8節ではその目的が記されています。①「弱い者をちりから起こす(クームקוּם)」ため、②「貧しい者をあくたから引き上げる(ルームרוּם)」ため、③「君主たちとともに、王座に着かせる(ヤーシャヴיָשַׂב)」ためです。「着かせる」の動詞は、9節の「主は子を産まない女を、子をもって喜ぶ母として家に住まわせる」にも使われています。「謙遜と高挙」の思想が、新約ではエペソ4:8、コリント第二8:9、ヘブル2:7などにも見られます。

# by taste_hebrew | 2010-03-12 13:53 | 愛顧用語
2010年 03月 10日
詩112篇「輝かす」
זָרַח  ザーラフ

・4節「主は直ぐな人たちのために、光をやみの中に輝かす。主は情け深く、あわれみ深く、正しくあられる。」(新改訳)
・4節「まっすぐな人には闇の中にも光が昇る。憐れみに富み、情け深く、正しい光が。」(新共同訳)

Keyword;「輝かす、光が昇る」 rise、dawn, 104:22/112:4

◆この4節は少々むずかしい文のようです。様々な聖書の訳を見るとそれを知ることができます。

(1) 新改訳(上記参照)では、 主語を「主」として、その働きと性格を説明するように訳しています。
(2) 新共同訳(上記参照)では、主語を「まっすぐな人」とし、その人の内に昇る光とその光がどのような性質かが説明されるように訳されています。岩波訳も同様です。
(3) 口語訳では「光は正しい者のために、暗黒の中でもあらわれる。主は恵み深く、あわれみに満ち、正しくいらせられる。」とあり、主語が「光」と「主」として分け、一見、別々のことであるかのように訳しています。
(4) フランシスコ会訳では「かれは闇の中で、直き者を照らす光としてあらわれ、あわれみ深く、親切で正しい。」とあり、主語は「かれ」としていますが、その「かれ」とは誰かを明確に指定していません。「直き者を照らす光として・・」とありますから、おそらく「主」を暗示しているようにみえます。
(5) 典礼訳では「光はやみの中に輝き、神に従う人、心正しく、あわれみ深い人を照らす。」とあり、主語を「光」としています。

◆このように主語がまちまちです。原文はどうなっているのでしょうか。ヘブル語の文は右から左方向ですが、ここでは右から並んている原文のことばの順に並べてみると・・・
זָרַח(ザーラフ) בַּחֹשֶׁךְ(バホシェフ) אוֹר(オール), לַיְשָׁרִים(ライシャリーム);
(輝き昇る)   (暗黒の中で)    (光が)    (正しい者たちに) 
חַנּוּן(ハヌーン)  וְרַחוּם(ヴェラフーム)  וְצַדִּיק(ヴェツァディーク)
(恵み深い)    (そして憐れみ深い)    (そして義しい)

◆後半の部分には、三つの形容詞が並んでいます。直訳では主語は「光」に見えます。問題は後半の三つの形容詞がどこにかかるのかということです。それによって全体の訳が変わってきます。私は典礼訳のように、三つの形容詞は「光」にかかるのが自然のような気がします。

◆そこで、この光が「輝く」「輝き昇る」と訳されたザーラフזָרַח(zarach)は、旧約で18回、詩篇ではわずか2回のみです。第一義的には、太陽が昇ることを意味します。そから、照らす、輝く、という意味が派生しています。

◆マラキ書4章2節に「しかし、わたしの名を恐れるあなたがたには、義の太陽が上りזָרַח、その翼には、癒しがある。」とあります。ここでいう「義の太陽」とはやがて来られるメシヤを預言しています。ルカ1:78, 79ザカリヤの賛歌にはこうあります。「・・あわれみにより、日の出がいと高き所からわれらを訪れ、暗黒と死の陰にすわる者たちを照らし、われらを平和の道に導く。」と。

◆イザヤ書58:10、および60:1, 2では、「光」は神の民イスラエルを指しています。そして次のように呼びかけています。
・「飢えた者に心を配り、悩む者の願いを満足させるなら、あなたの光は、やみの中に輝き上りזָרַח、あなたの暗やみは、真昼のようになる。」(58:10)
・「起きよ。光を放てזָרַח。あなたの光が来て、主の栄光があなたの上に輝いているזָרַח
からだ。見よ。やみが地をおおい、暗やみが諸国を覆っている。しかし、あなたの上には主が輝きזָרַח、その栄光があなたの上に現われる。国々はあなたの光のうちを歩み、王たちはあなたの輝きに照らされて歩む。」(60:1~3)

◆詩112篇には、闇に輝く者たちの光の歩みがいかなるものであるかを記している。リビング・バイブルでそこを引用してみたい。

「神様を信じて従う人は、口で言い表せないほどの祝福を受けます。・・・たとい、暗やみの力に巻き込まれたとしても、すぐに光にこうこうと照らされるでしょう。彼はあわれみ深く、親切です。・・このような人は、事態が思わしくなくなったからといって、動じたりしません。周囲の人々は、神様が彼をいつも引き立てておられる様子を見て、深い感銘を受けるのです。彼は悪い知らせを受けても恐れず、今度は何が起こるかと、びくつきもしません。神様から見放されるわけがないと知っているからでする。ですから、何事も恐れないで、冷静に敵の顔を見つめることができるのです。彼は物惜しみしたりせず、貧しい人に気前よく与えます。その善行は、いつまでも忘れられず、人々の尊敬を集めます。これを見たひねくれた者は、怒りに震えます。歯ぎしりしながら、逃げるしかありません。望みが消え去ったからです。」(詩112篇1, 4~10節)。

◆まさにこれはイエスの十字架と復活を預言しています。イエスが「引き渡され」て十字架に向かうその姿の中に、すでに「復活の光」が前倒しされているように思います。「復活の光」とは、神に対するゆるぎない信頼であり、そこから生まれるかかわりのいのちのすべてを意味します。

◆その光の源泉は神にあります。私たちが神を恐れる者であるならば、闇を輝かすことのできる光を持つことができます。使徒ヨハネは、「神は光であって、神のうちには暗いところが少しもない。・・神が光の中におられるように、私たちも光の中をあゆんでいるなら、私たちは互いに交わりを保つ」と述べています(Ⅰヨハネ1:5, 7)。「あなたがたは、以前は暗やみでしたが、今は主にあつて、光となりました。光の子どもらしく歩みなさい。」(エペソ5:8) なぜなら、「すべての良い贈り物、また、すべての完全な賜物は、上から来るのであって、光を造られた父から来る。」(ヤコブ1:17)からです。御子イエスを通して、父から闇を照らす光を賜わり、それを放つ者とさせていただきたいと切に思う。




# by taste_hebrew | 2010-03-10 00:46 | 賦与用語
2010年 03月 06日
詩111篇 「堅く立つ」
עָמַד   アーマド

・3節「そのみわざは尊厳と威光。その義は永遠に堅く立つ。」
・10節「主のほまれは永遠に堅く立つ。」

Keyword;「堅く立つ」 endure, can never change,  
    19:9/33:9/102:3, 9, 26/111:3, 10/112:3, 9/119:90, 91/134:1/135:2/148:6

◆「堅く立つ」と訳されたアーマドעָמַד(`amad)は、旧約で532回、詩篇では32回使われています。第一義的には「立つ」standを意味しますが、単に「立つ」ということではなく、いつまでも存続して変わらないこと、永遠の存続を意味します。他の聖書では、以下のように訳されています。3節後半を比べてみましょう。それぞれ味わい深い訳になっています。
①新共同訳「その義は永遠に続く」 
②文語訳「とこしえに失することなく」 
③口語訳「とこしえに、失せることがない」 
④典礼訳「とこしえに及ぶ」 
⑤フランシスコ会訳「とこしえに続く」 
⑥バルバロ訳「永遠にとどまる」 
⑦岩波訳「とわに立つ」

◆この他にも、アーマドが使われている詩篇の箇所を調べてみると、「主への恐れはきよく、とこしえまでも変わらない」(19:9)、「主が命じられると、それは堅く立つ」(33:9)、「彼(主)の義は永遠に堅く立つ」(102:3, 9)、「これらのものは滅びるでしょう。しかしあなたはながらえられます。」(102:26)、「あなたが地を据えたので、地は堅く立っている。」(119:90)、「夜ごとに主の家で仕える者たちよ。」(134:1, 135:2)、「主は彼らを世々限りなく立てられた」(148:6)があります。

◆この詩111篇3節、10節には「永遠に堅く立つ」(オメデット・ラアッド)とあります。「永遠に」と「堅く立つ」という永遠性を意味することばが重ねられて強調されています。

◆この世にあるすべてのものは移り変わり、やがて滅びます。しかし、主と主のことば、主のなされることは永遠に存続します。決して変わることがなく、不変です。これは私たちにとってすばらしい恩寵です。不確実性の世界にあってこれは福音です。これはペテロがいうところの「生ける望み」(Ⅰペテロ1:3)です。それは「朽ちることも汚れることも、消えて行くこともない資産」(同、1:4)です。これが私たちのために「天にたくわえられている」(同、1:4) のです。それゆえ、私たちは「ことばに尽くすことのできない、栄えに満ちた喜びにおどる」(同、1:8)ことができるのです。ヘブル書の著者も「私たちは揺り動かされない御国を受けているのですから、感謝しようではありませんか。」(12:28)と記しています。イエスも言われました。「まことにあなたがたに告げます・・この天地は滅び去ります。しかし、わたしのことばは決して滅びることがありません。」(マタイ24:35)と。

◆詩111篇の作者が冒頭で「ハレルヤ。私は心を尽くして感謝しよう。」と述べているのは、こうした揺るぎない、変わらない主の永遠性を見据えていたからです。現代に生きる神の民も、主に対する賛美が「永遠に堅く立てられる」ものとならなければなりません。

# by taste_hebrew | 2010-03-06 21:55 | 統治用語
2010年 03月 03日
詩110篇 「打ち砕く」
מָחַץ マーハツ

・6節「あなたの右にいます主は、御怒りの日に、王たちを打ち砕かれる。」
・7節「主は国々の間をさばき、・・広い国を治めるかしらを打ち砕かれる。」

Keyword;「打ち砕く」 crush, crushed completely, shatter  
18:38/68:21, 23/110:5, 6/

◆神の救いの計画における最終的な正義が執行される意味での恩寵としての「打ち砕く」と訳されたマーハツמָחַץ(machats)は、旧約14回、詩篇では5回使われているだけです。マーハツは、特に敵の王、あるいは敵の頭に対して、二度と立てないように「打ち砕く」「完全に粉砕する」「完全につぶす」「激しく打つ」ことを意味しています。味方にとっては完全な勝利ですが、敵にとっては完全な敗北の時です。

◆イエスは「天の御国」のたとえとして、良い麦の中に毒麦も姿を現わしたのを見たしもべたちが、それを吹き集めましょうと提案したしもべたちに、毒麦を抜き集めるうちに、良い麦もいっしょに抜き取るかもしれないという細心の配慮から、収穫の時までそのままにしておく人のようだと言われました(マタイ12:24~30)。今の時代は「すでに」神の国の支配が存在していますが、同時に「いまだ」未完成です。しかしやがて確実に毒麦を抜き取る時がやってきます。

◆詩110篇はメシヤ詩篇(Messianic Psalms)です。メシヤがどのような方であり、やがて何をなされるのか、どのような行動を取られるのかを様々な面から啓示されている詩篇です。特に、この詩110篇は新約で14回も引用されており、ひとつの詩篇が引用される回数としては最も多い詩篇です。しかも、いずれも主イエス・キリストに当てはめられています。

◆内容的には以下の内容が語られています。人間的には考えられないことでした。
(1) キリストの昇天と御父の右の座への着座
(2) キリストの大祭司としての務め
(3) キリストの再臨の戦い(ハルマゲドン)と千年王国の到来
が含まれて預言されています。ダビデはこのことを聖霊によつて霊感されて語ったと言えます。ダビデがこのことに目が開かれていたかどうか分かりません。メシヤ的詩篇における預言の場合、必ずしもそれを語る本人がその真意を悟ることなく語る場合もあるのです。新約の光にはじめてそれが正しく理解することができます。

◆神の最終的な勝利、敵の完全な粉砕が約束されていることにいつも光を当てることで、今の時代の不条理な現実、清濁併せ持つ現実においていかに対処すべきかが分かってきます。今は、御座の右におられる小羊(アルニオン=勝利の小羊)が、私たちを決して失われることのない大切な良い麦として守っていて下さるのです。私たちはこの恵みにしっかりと応えなくてはなりません。それはイエス・キリストのみを仰ぎ見て生きることです。

# by taste_hebrew | 2010-03-03 02:38 | 統治用語
2010年 03月 01日
詩109篇 「祝福する」
בָּרַך  バーラフ

・28節「彼らはのろいましょう。しかし、あなたは祝福してくださいます。」(新改訳)
・28節「彼らはのろうが、わたしにはあなたの祝福があります。」(フランシスコ会訳)

Keyword;「祝福する」 bless  5:12/28:9/29:11/37:22/45:2/67:1/107:38/109:28/
112:2/115:12/118:26/128:4, 5/134:3/

◆詩109篇では「のろい」と「祝福」が対峙する形で登場します。名詞の「のろい」はケララーקְלַלָה(qelalah)で33回。申命記の特愛用語です(11回)。詩篇では109篇(17, 18節)の2回。一方の「祝福」はベラーカーבְּרָכָה (beraqah)で69回。動詞の「のろう」はカーラルקָלַל(qalal)で81回。詩篇ではわずかに3回(37:22/62:4/109:28)、「祝福する」のバーラフבָּרַך(barakh)は327回ですがそのうち神に対する賛美の意味ではなく、純粋に神からの恩寵としての「祝福する」という動詞は260回ほどです。

◆「のろい」「のろう」よりも、圧倒的に「祝福」「祝福する」ということばが多いのです。神は本来的に祝福の神なのです。しかし、詩109篇の作者の周りには「のろいを愛する」者(17節)、「のろいを身にまとう」者(18節)たちがいます。彼らのことばは授悪と欺きであり、憎しみに満ち、「祝福することを喜ばない」(17節)者たちでした。

◆私たちがそのような者たちにのろわれた時、どう受け止めたらよいのでしょうか。その模範となるべき人物は新約においてはイエス・キリストです。ペテロは「キリストは、・・ののしられても、ののしり返さず、苦しめられても、おどすことをせず、正しくさばかれる方にお任せになりました。」(Ⅰペテロ2章22節)と模範を示し、同時に私たちに対しても「悪をもって悪に報いず、侮辱をもって侮辱に報いず、かえって祝福を与えなさい。あなたがたは祝福を受け継ぐために召されたのだからです。」と勧告しています。

◆旧約のダビデの模範もあります。彼が自分の息子アブシャロムの反乱によって都落ちしたとき、かつてのサウル一族のひとりシムイが逃亡するダビデに「神がサウルの家のすべての地をおまえに報いたのだ」とさんざん罵り、のろいのことばをはきつづけ、石までも投げつけました。ダビデの部下がシムイの首をはねようとしましたが、ダビデは彼を押しとどめました。ダビデは神がのろうのを許しておられるからだとダビデは受けとめました。つまり、ダビデはそれを神に対する信頼のテストとして受けとめたのでした。

◆自分にのろいのことばが向けられた時、ダビデの模範は大いに役立ちます。案の定、アブシャロムの反乱は失敗に終わり、ダビデは元いたエルサレムに戻りますが、そのときダビデの前にシムイが現われて、自分のしたことを謝罪します。ダビデはなんと彼のしたことを赦したのでした。まさに神からの祝福を存分に受けたダビデは「悪をもって悪に報いず、侮辱をもって侮辱に報いず、かえって祝福を与えなさい。あなたがたは祝福を受け継ぐために召されたのだからです。」という勧告を先立って実行したことになります。

# by taste_hebrew | 2010-03-01 11:20 | 愛顧用語
2010年 02月 23日
詩108篇 「(神の)愛する者」
יָדִיד  ヤーディド

・6節「あなたの愛する者が助け出されるために、あなたの右の手で救ってください。そして私に答えてください。」 (新改訳)

Keyword;「愛する、愛される」  lover, beloved, lovely, friend, lovely thing  
60:5/84:1/108:6/127:2

◆「あなたに愛される者(原文では複数形)」の「愛される」と訳されたヤーディドיָדִיד(yadiyd)は形容詞です。旧約では8回、詩篇では4回。愛される対象はイスラエル民族に対して言われている箇所(イザヤ5:1、エレミヤ11:15)、ダビデとその戦士たちに対して言われている箇所(詩篇60:5、108:6)、不特定の個人に対して言われている箇所(詩篇84:1、127:1)、そしてベニヤミン部族に対して言われている箇所(申命記33:12)があります。

◆旧約において、神ご自身が預言者を通して直に「主に愛された者」と呼んだのは、このベニヤミン部族とダビデとバテ・シェバの子、ソロモンに対してのみです。Ⅱサムエル12:24~25には「主はその子を愛されたので、預言者ナタンを遣わして、主のために、その名をエディデヤ(יְדִידְיָהּ)と名づけさせた。」と記されています。エディデヤは、主(ヤッハיָהּ)と「愛する」ヤーディドיָדִידが合成された名詞です。ソロモンは父ダビデからエディデヤ、つまり「主の愛された者」という愛称でいつも呼ばれたのです。ダビデが息子をエディデヤと呼ぶことができるほどに、ダビデもまた神に愛された者だったのです。神の絶大な恵みというほかありません。

◆ここで、モーセの訣別説教でベニヤミン部族を祝福した言葉を見てみましょう。申命記33:12にはこう記されています。「主に愛されている者。彼は安らかに、主のそばに住まい、主はいつまでも彼をかばう。彼が主の肩の間に住むかのように。」なんという恩寵に満ちた預言でしょうか。ベニヤミンを産んだ母ラケルはその苦しみのゆえに「ペン・オニ」(私の苦しみの子)と名付けましたが、父ヤコブは「右手の子」(新改訳)、「幸いの子」(新共同訳)と名付けました。「右手の子」とは、最も信頼する子、最愛の子を意味します。それゆえベニヤミンが「幸いな子」と呼ばれてもおかしくありません。ヤコブの末の子です。

◆ここに面白いことが見られます。詩篇108:6には「あなたの愛する者が助け出されるために、あなたの右の手で救ってください。」とあります。主に愛されている者とは、主の右の手にふさわしい者ということです。御子イエスも御父の右の座におられます。自分が神に愛されている者であるとい確信が、神の右手の子と表現されています。さらに面白いことは、主に愛されている者であることのしるしは、「安眠」だということです。モーセの祝福にもベニヤミンは「彼は明日らかに主のそばに住まい」とあります。詩篇127:2では「主はその愛する者には、安眠を下さる」と約束しています。御子イエスも嵐の舟の中で寝ておられました。「安眠」はまさに、主に愛されている者の「しるし」と言えます。

# by taste_hebrew | 2010-02-23 22:27 | 愛顧用語
2010年 02月 19日
詩107篇 「助け出す」
מָלַט  マーラト

・20節「主は・・その滅びの穴から彼らを助け出された。」 (新改訳)
・20節「主は・・破滅から彼らを救い出された。」(新共同訳)

Keyword;「助け出す、救い出す」 deliver, save  22:5/33:17/41:1/89:48/107:20/116:4/124:7, 7

◆「助け出す」「救い出す」と訳された救出用語のマーラトמָלַט(malat)は、旧約で95回、詩篇では8回とそれほど多くはありませんが、いずれも、人の力を越えた大きな力、死とよみの恐怖、滅びの穴、破滅のわなから「救い出す」といった意味です。詩107篇では「滅びの穴から」(新改訳)、「破滅から」(新共同訳)、「死の病」(典礼訳)から救い出されたことが記されています。

◆神はご自身の恵みを私たちに示すために、人間の力では救い出せない状況へと追い込まれることがあります。それは私たちを神の救い出しを経験させるためです。かつての出エジプトにおいても、神がエジプトの王パロの心をかたくなにさせました。それは神の力を示すためにほかなりませんでした。さすらいの経験、飢え渇きの経験、束縛の経験、先の見えない行き詰まりの経験、不条理な闇、失敗、挫折、敗北がもたらす苦悩、煩悶、患難、労苦、そうしたすべてが神にしかなしえない救出へと向けられているのです。

◆詩107篇にはマーラトמָלַט(malat)の他に救出用語が三つあります。6節の「救い出す」と訳されたナーツァルנָצַל(natsal)、13,19節の「救う」と訳されたヤーシャーיָשַׁע(yasha`)、そして14, 28節の「連れ出す」と訳されたヤーツァーיָצָא(yatsa’)です。

◆これまで自分の信仰生活の歩みを振り返る時、何度か大きな信仰の危機を通りました。神の道よりも自分の道を優先したために完全に先が見えない状況に陥りました。その「苦しみ」の中で涙ながらに主に叫び求めました。そして神中心の生活が始まり、献身の道へと導かれました。それから14年後(開拓伝道から3年目)にして完全に行き詰まりました。 ある集会で祈ってもらっていた時、主が私の魂の渇きを知っておられることに気づかされ、新しい霊の流れが私の内に注がれはじめました。それから10年後、主の前に大きな罪を犯し、悔い改めた後、自分の信仰をリセットすべく完全に神の「隠れ場」に5年間隠されました。そして今に至っています。その間にも、さまざまな信仰のアップ・ダウンを繰り返しながら、その都度、神に向かって叫び、神はその叫びを聞いてくださり、そこから救い出して下さいました。私が今、立つことができているのは、ただただ神の恵みのゆえなのです。詩107篇の作者が「主に感謝せよ。主はまことにいつくしみ深く、その恵みはとこしえまで。」と呼びかけているように、私も自分のたましい向かって呼びかけ続けています。

「主の恵みと、私への奇しいわざを主に感謝せよ。主はまことにいつくしみ深く、その恵みはとこしえまで。」

# by taste_hebrew | 2010-02-19 15:15 | 救出用語
2010年 02月 16日
詩106篇 「集める」
קָבַץ  カーヴァツ

・47節「私たちの神、主よ。・・・国々から私たちを集めてください。」 (新改訳)

Keyword;「集める、引き寄せる」 gather, assemble  106:47/107:3/147:2

◆「散らされた者を集める神」、「引き寄せの神」-これが預言者たちが語った重要な神観であり、メッセージです。詩106篇は、神の恵みのみわざを何度も目の当たりにしながらも、その方を忘れた不真実な民に対して、どこまでも真実であろうとする神がたたえられています。

◆「集める」と訳されたカーヴァツקָבַץ(qavats)は、旧約で127回ですが、詩篇はわずかに4回です。ちなみに、107:3では「(主は)、彼らを国々から、東から、西から、北から、南から、集められた。」とあり、147:2では「主はエルサレムを建てイスラエルの追い散らされた者を集める。」とあります。

◆このカーヴァツקָבַץは、イザヤ、エレミヤ、エゼキエルと言った預言者たちの特愛用語です。彼らは、罪のゆえに散らされたイスラエルの民に向かって、その散らされた者たちを再び「集める」、 “I will gather”という神のメッセージを繰り返し語りました。かつての出エジプトでは、民はそこから「連れ出される」神のみわざがを経験しましたが、それとは異なり、散らされた所から神がご自身の民を再び「集める」「引き寄せる」という神のみわざが預言されているのです。

(1) イザヤ書では、11:12/40:11/43:5, 9/54:7/56:8/66:18 
・「主は国々のために旗を掲げ、イスラエルの散らされた者を取り集め、
 ユダの追い散らされた者を地の四隅から集められる。」(11:12)
・「主は羊飼いのように、その群れを飼い、御腕に子羊を引き寄せ、
 ふところに抱き、乳を飲ませる羊を優しく導く。」(40:11)

(2) エレミヤ書では、23:3/29:14/31:10/32:3
・「わたしは、あなたがたの捕われ人を帰らせ、すべての場所から、あなたがたを集める。
 -主の御告げーわたしはあなたがたを引いて行った先から、あなたがたをもとの所へ帰らせる。」(29:14)

(3) エゼキエル書では、11:17/20:41/28:25/34:13/36:24/37:21/38:8/39:27
・「わたしが、あなたがを・・その散らされている国々から、あなたがたを集めるとき、
 わたしは、あなたがたをなための香りとして喜んで受け入れる。
 わたしは、諸国の民が見ている前で、あなたがたのうちにわたしのせいであることを示す。」(20:41)

◆今日、世界中に離散している多くのユダヤ人が永遠のゆずりの地として与えられた地であるイスラエルに帰還しつつあります。神の預言が成就するために、イスラエルに接木された異邦人クリスチャンはこの帰還のためにその働きの一端を担わなければなりません。

# by taste_hebrew | 2010-02-16 13:06 | 救出用語
2010年 02月 12日
詩105篇 「覚えている」
זָכַר  ザーハル

・8節「主は、ご自分の契約をとこしえに覚えておられる。」(新改訳)
・8節「主はとこしえに契約を御心に留められる。」(新共同訳) 

Keyword;「覚える、御心を留める」 remember, be mindful of
8:4/78:39/105:8, 42/115:12

◆神の恩寵としてのザーハルזָכַר(zakhar)は、詩103篇14節のように、主が、私たちの成り立ちを知り、私たちがちりにすぎないことを「心に留めておられる。」という顧みの恩寵と、詩105篇8節、42節のように、イスラエルの民に対するご自分の契約やことばを決して忘れることなく、とこしえに「覚えておられる」「思い起こす」という記憶の恩寵があります。それゆえ、私たちに対しても神は、ご自身がなされた奇しいわざを「思い起こす」ように求められます。とはいえ、イスラエルの歴史の真実は、神の恵みを思い出すことなく、心に留めることもなく、忘恩の罪を犯し続けました。「歴史化された詩篇」にはいつもそのような構図が見られます。たとえば、詩篇78篇、106篇などはそうです。

◆神の恩寵としてのザーハルזָכַר(zakhar)が聖書で最初に登場するのは、創世記8章1節でする。神は、ノアと、箱舟の中に彼といっしよにいたすべての獣や、すべての家畜とを心に留めておられた。」、そして、神はノアに契約を立てて言いました。「あなたがたと、そしてあなたがたの後の子孫と、またすべての生き物は、もはや大洪水の水によって滅ぼすようなことはない。」(同、9:9~15)と約束されました。そのしるしとして「虹が雲の中にあるとき、わたしはそれを見て、神とすべての生き物、地上のすべての肉なるものとの間の永遠の契約を思い出そう(זָכַר)。」(同、9:16)と約束されました。

◆エレミヤ書の31:20はこの書の心臓部ーこの章を除いてほとんどが「神の怒り」の宣言で終始していますが、その神の怒りが全く姿を消して、神の愛のみが支配しているのはこの31章のみーです。そこにはこう記されています。 「エフライムは、私の大事な子なのだろうか。それとも、喜びの子なのだろうか。わたしは彼のことを語るたびに、いつも必ず彼のことを思い出す(זָכַר)。それゆえ、わたしのはらわたは彼のためにわななき、わたし彼をあわれまずにはいられない。」

◆「わたしのはらわたは彼のためにわななき」と訳された箇所を文語訳では「我が腸はかれの為に痛む」と訳されています。「わななく」「痛む」の原語はハーマーהָמָה(hamah)です。 ハーマーの原義は「鳴り響く」です。海のどよめき、獣の声、群衆の騒音等に用いられますが、人的状態に用いられる時は「嘆き、呻く」「心が乱れる」「立ち騒ぎ」「思い乱れる」の意味になります。そしてこの言葉が神の心的状態について用いられる時は「はらわたが痛む」となります。この神の痛みに基づく愛こそイエス・キリストの十字架の愛です。このような愛に基づいて、神は私たちを心に留め、約束を覚えておられるのです。

# by taste_hebrew | 2010-02-12 05:42 | 愛顧用語
2010年 02月 11日
詩104篇 「(水を)飲ませる」
שָׁקָה   シャーカー

・11節「野のすべての獣に飲ませられますשָׁקָה。野ろばも渇きをいやします。」(新改訳)
・13節「主はその高殿から山々に水を注ぎשָׁקָה、地はあなたのみわざの実によって満ち足りています。」(新改訳)

Keyword;「(水を)飲ませる、注ぐ」 give water, water, 36:8/60:3/69:21/78:15/80:5  
(※神の恩寵としてのシャーカーは36:8, 104:11, 13の3箇所だけです。)

◆詩104篇には「水」マイムמַּיִםという語彙は2回(3, 6節)しか出てきませんが、水に関連する語彙―たとえば「深い水(深淵)」、「泉」「海」-が見られます。

◆詩104篇には、「さばきとしての水」と「恩寵としての水」が取り上げられています。

(1) さばきとしての「水」

◆6節の「あなたは、深い水を衣のようにして、地をおおわれました。」とは、ノアの時代の洪水によるさばきとしての「水」です。しかし神は「水が再び地をおおうことのないようにされました。」つまり、洪水によるさばきはもたらさないと神が誓われたのです。

(2) 恩寵としての「水」

◆「主は泉を谷に送り、山々の間を流れさせ、野のすべての獣に飲ませられます。野ろばも渇きをいやします。」(10, 11節) 「主はその高殿から水を注ぎ、地はあなたのみわざの実によって満ち足りています。」(13節)―水によって、すべてのものが生かされます。家畜のためには牧草を茂らせるだけでなく、、葡萄や小麦によって人の心を喜ばせ、支えて生存の保障を与えます。また、立派な木々によって人はそれよって造られた家に住み、防衛の保証が与えられます。海の中に生きる生き物は数知れません。神の敵の象徴とされたレビヤタンもその中で戯れています。

◆すべての生き物を生かす水は、地球で40億年以上もかけて酸素がつくられて、水が生まれました。それから生き物たちが生まれて来たのです。すべての生き物は酸素も水も、それなしには存在できません。この地に生きるすべてのものを生かすために、神はこの地上の気の遠くなるような時間をかけて舞台設定をなされました。このことを思う時、神の「麗しさ」(beauty)に驚きを感ぜずにはいられません。一滴の雫さえも、霧も、一つの川も、すべて神の麗しい作品であり、それがいのちを与え保つのです。

◆ダビデという人は、「ただひとつのこと」を求めましたが、それは主の家に住んで主の「麗しさ」を仰ぎ見、思いにふける(瞑想する)ためでした。主の麗しさ(beauty)は、自然界、宇宙の中に満ち満ちています。それは神と人との永遠のかかわりを築こうとするあらゆる面での美しさを啓示しています。自然界における神の恩寵だけでなく、神の民に対する神の恩寵の表象として、預言者イザヤは背いた神の民に対して、「水を注ぐ」、「荒野に水をわき出させ、荒地に川を流して飲ませる」と語っています(イザ27:2~3, 43:20)。

# by taste_hebrew | 2010-02-11 13:50 | 賦与用語
2010年 02月 06日
詩103篇 「あわれむ」
רָחַם  ラーハム

・13節「父がその子をあわれむように、主は、ご自分を恐れる者をあわれまれる。」 (新改訳)

Keyword;「あわれむ」  have compassion,    18:1/102:1/103:13, 13/116:5

◆「あわれむ」と訳されたラーハムרָחַם(racham)は、旧約で47回、詩篇では5回です。詩103篇では13節に2回使われています。4節「恵みとあわれみの冠をかぶらせ」では名詞のラハミームרַחֲמִים(rachamiym)-他に、25:6/40:11/51:1/69:16/77:9/79:8/106:46/119:77,156/145:9が、8節の「主は、あわれみ深く」では形容詞のラフ―ムרַחוּם(rachum)ー他に、78:38/86:15/111:4/112:4/145:8―が使われています。ラーハムרָחַם(racham)は、イザヤ書とエレミヤ書の特愛用語です。

◆このラーハムרָחַםは、実は、神の深いふところにある思いと密接なつながりをもっています。預言者エレミヤはこの動詞を31:20で次のように使っています。
「わたしのはらわたは、彼のためにわななき(ハーマーהָמָה)、わたしは彼をあわれま(ラーハムרָחַם)れずにはいられない。」(新改訳)、「わななき」と訳されたハーマーהָמָה(hamah)は、新共同訳では「胸は高鳴り」と訳されています。このハーマーの本来の意味は、水や海が「騒ぎ立つ」「鳴り響く」ことであり、それが人間に使われると「思い乱れる」「打ち悩む」「思い悩む」「呻く」「呻吟する」という意味になります。それが神に使われると、はらわたが「わななき」「胸は高鳴り」と訳されますが、関根訳では「しきりに動き」、文語訳では「痛む」と訳されています。

◆日本の神学者、北森嘉蔵師はこのハーマーהָמָהということばにこだわり、調べていくうちに神の福音の真髄に触れるものとだと気づき、「神の痛みの神学」を樹立させました。彼はこう述べています。「エレミヤ記31:20の中に一つの異常な言葉を見出して以来、私は昼も夜もこの言葉を考えつづけてきた。それは私にとっては文字通り異常な言葉であった。その語この言葉がイザヤ書63・15と関係をもつことを知るや、私はこの言葉の担う秘義にいよいよ深き驚きをもつに至った。」(北森嘉蔵著『神の痛みの神学』、233頁、講談社、1972)

◆つまり、神の「あわれみ」は、神のはらわたの痛みを伴う愛であることに気づかされたというわけです。神の愛を知った者がそれを裏切る、にもかかわらず、その者とどこまでも愛のかかわりを持とうとすることは、当然、痛みを伴います。その神の痛みはやがてイエス・キリストの十字架において、究極的な形で現わされました。神の痛みに裏付けられた神の愛(あわれみ)―それに気づかされることが、真の「主を恐れる者」と言えるのかもしれません。このように、一つのことばにこだわり、それを詳しく調べることで福音の真髄に触れる鉱脈を発見したことは、神を知ることを求める者にとって大切な学び方のなのだと教えられます。


# by taste_hebrew | 2010-02-06 08:47 | 愛顧用語
2010年 02月 03日
詩102篇 「建てる」
בָּנָה バーナー

・16節「なぜなら、主はシオンを建て、その栄光のうちに現われ・・」 (新改訳)

Keyword;「建てる、築く、再建する」build, build up,
51:18/69:35/78:9/89:2, 4/1-2:16, 118:22, 122:3, 127:1,1/147:2

◆「建てる」と訳されたバーナーבָּנָה(banah)は、旧約で379回、詩篇では12回使われている。このことばが聖書で初めて登場するのは創世記2章22節。「神が人から取ったあばら骨によってひとりの女に造り上げ(בָּנָה)」というところに使われている。神が人という存在を建て上げるためにしたことです。それは、男と女がその深い交わりを通して、神と人とのかかわりのいのちを繁栄させるためでした。人はここに初めて「ふさわしい助け手」が与えられたのです。神と人、人と人のかかわりを建て上げることのできるお方です。

◆聖書には二つの「建て上げ」の系譜があります。一つは、カインが自分の犯した罪のゆえに主の前から去って、エデンの東ノデに住みつき、町を建てます(創4:17)。そして自分で自分を建てる文明が始まっていきます。そしてやがては「さあ、われわれは町を建て、頂が天に届く塔を建て、名を上げよう。」(同、11:4)とします。それに対して神はことばを混乱させてそれを阻止します。人間の力で建て上げていこうとする傾向は、神の民となるべく選ばれた者たちに対してもその誘惑が絶えずありました。たとえば、なかなか子どもが与えられなかったアブラハムの妻サラは自分の女奴隷ハガルによって、「私は子どもの母になれる(בָּנָה)」と考え、ハガルのところに入るように夫に勧めました(創16:2)。同じようなことがヤコブの最愛の妻ラケルもします(創30:3)。

◆もうひとつの系譜は、神によってすべてを建て上げていこうとする流れです。神がノアの時代、すべてをリセットすべく洪水を起こした後に、ノアは祭壇を築きます。この祭壇を「築く」という動詞がバーナーבָּנָהです。祭壇を築くことは、神を神として、神によって再建するという礼拝行為です。この流れは、アブラハム(12:7, 8)、イサク(26:25)、ヤコブ(35:7)と引き継がれ、モーセへと引き継がれていきます。しかし、神の民の歴史は祭壇を築くことをやめたことにより、自分のたちのよりどころであったシオンの町(エルサレム)を失いました。今や、神の民はバビロンにおいて悲痛なほどの試練の中から、再度、神がシオンを再建されることを確信するようになったのです。

◆神の家、主の家の再建は神の独占行為です。神の民の将来が保証されるのはただ神のみであるという信仰の光がともされたのでした。それゆえ、この信仰は「後の時代のため」(後世の世代のため)に「書きしるされ」なければならなかったのです(詩篇102:18)。

◆「まことに神が・・・エルサレムの町々を建てられる。」(詩篇69:35)「主はエルサレムを建て、イスラエルの追い散らされた者を集める」(詩篇147:2)、「主が家を建てるのでなければ、建てる者の働きはむなしい。」(詩篇127:1)・・も同じ思想の詩篇と言えます。

# by taste_hebrew | 2010-02-03 01:02 | 統治用語
2010年 01月 23日
詩99篇 「赦す」  
נָשָׂא ナーサー
 
・8節「・・あなたは、彼らにとって赦しの神であられた。しかし、彼らのしわざに対してはそれに報いる方であった。」(新改訳)

Keyword;「赦す」 forgive, 25:18/32:1, 5/99:8

◆8節には対極的な動詞があります。それは「赦す」という動詞と、「報いる」という動詞です。一般的に「赦す」の反対は、「さばく」と考えますが、旧約聖書の「さばき」はシャーファトで神のすべての統治用語を括る語彙です。したがって、詩99篇8節では、「赦す」ナーサーנָשָׂא(nasa’)の反対語は、「さばく」ではなく、「罰する、罰を下す、仕返しする、報いる、復讐する」と訳される動詞ナーカムנָקַם(naqam)が使われています。面白いことに、どちらも頭文字がヌン(נ)で始まっています。

◆「赦す」と訳されたナーサーנָשָׂא(nasa’)は、本来、手や目を上げる(rise up, lift up)、
重荷を負う(bear)、荷物を持ち運ぶ(carry)という意味ですが、ここでは神が人の罪の重荷を負う、取り去ることから、「赦す」と訳されています。「赦す」の類義語には、サーラフסָלַח(salach)がありますが、。こちらはほぼ「赦す」forgiveです。25:11/103:3参照。

◆神である王としての統治において、イスラエルの民はこの「赦し」を何度も経験したことにより、「赦しの神」と告白しています。と同時に、「彼らのしわざに対してはそれに報いる方であった。」とあります。これはどういうことでしょうか。

◆かつて出エジプトしたイスラエルの会衆が金の子牛を造って拝んだ事件の後、再び、シナイ山に登ったモーセに神がこう語りました。「主、主はあわれみ深く、情け深い神、怒るにおそく、恵みとまことに富み、恵みを千代も保ち。咎とそむきの罪を赦す者、罰すべき者は必ず罰して報いる者、父の咎は子に、子の子に三代、四代に。」(出34:6)と。

◆その後、約束の地へ斥候として遣わされた者たちの報告によって、全会衆はモーセとアロンに対して「エジプトの地で死んでいたらよかったのに」「荒野で死んだ方がましだ」「エジプトに帰ろう」などと口ぐちにつぶやきました。そのため、会衆に悪く言いふらした者たちは疫病で死に、ほかの者たちは40年間の荒野の放浪生活を余儀なくされました。それは自分たちの神に対する背信の罪を負う旅であり、ヨシュアとカレブを除く第一世代はその荒野で死に果てました。これが神に対する反抗の「報い」です。民は、赦されたにもかかわらず、荒野の放浪という罰は下されたのです。しかしこの罰は神の民に対する訓練的な意味での懲らしめとしての罰でした。

◆「赦す」ことと「正当な罰を下すこと」は、イエス・キリストの十字架の死においてクライマックスを迎えます。御子はその十字架において、私たちが性懲りもなくしでかした罪を一身に背負い、その当然の報いである刑罰を受けると同時に、「赦し」もなされたのです。不可解なことですが、このことによって神ご自身が「聖」であることを明らかに示されたのでした。

# by taste_hebrew | 2010-01-23 19:48 | 統治用語
2010年 01月 15日
詩97篇 「種を蒔く」
זָרַע  ザーラー

・11節「神に従う人のためには光を 心のまっすぐな人のためには喜びを種蒔いてくださる。」(新共同訳)
・11節「光は、正しい者のために、種のように蒔かれている。喜びは、心の直ぐな人のために。」(新改訳)

Keyword;「(種を)蒔く」 sow, 97:11/107:37/126:5

◆光や喜びを種のように「蒔く」と訳されたザーラーזָרַע(zara`)は、旧約で56回、詩篇では3回のみです。そのうちのひとつ詩126篇5節では「涙とともに種を蒔く者は、喜び叫びながら刈り取ろう。」とあります。ここでの「種」とは、神のみことば(トーラー)を意味します。しかも主語は神ではなく人です。神の民はバビロン捕囚という憂き目を経験しながらも、彼らはそこで神のことばにしっかりと向き合い、その確かさ、豊かさ、恩寵を見出したのでした。そしてそれがやがて詩篇1篇2節にあるように、「主のおしえを喜びとし、昼も夜もそのおしえを口ずざむ」というライフ・スタイルを生み出しました。彼らは自ら蒔いたものを刈り取ったのです。その間、70年という歳月が流れました。

◆ちなみに、名詞形のゼラーזֶרַע(zera`)は、「子孫」を意味します。旧約230回、詩篇では18回(ただし、126篇6節のみ「種入れ」と訳されていますが)です。

◆さて、この詩97篇11節は神の国(神の支配、神の統治)が到来する終末に向けた預言的な表現です。光が、そして喜びが種のように蒔かれているとはどういうことか。王である神の支配をやがて完全な形で現わされる時がまさに刈り入れの時だとすれば、すでにその種は蒔かれているということになります。どこに、だれのために蒔かれているのかといえば、それは「正しい者」たちの心にです。詩篇97篇のことばで換言するならば、「シオン」「ユダの娘たち」「主を愛する者たち」「聖徒たち」「心の直ぐな人」たちてす。いうなれば、神に贖われた者たちの心の中に蒔かれています。

◆ここでいう「光」(オールאוֹר)とは、光源としての光ではなく、おそらく、神との交わりとしてのいのちの光を意味すると思います。その「光」は、啓示の光、悟りの光、愛の光、御顔の光、とも言えます。それがすでに神に贖われた者のうちに種のように蒔かれているのです。

◆一方の「喜び」(サーマフשָׂמָח)も、感情的な喜びというよりも、イエスいう「わたしの喜び」であり、この世の喜びではありません。いつも神に覚えられているという存在論的意味での喜びを意味していると思います。

◆イエスの語った「種蒔く人のたとえ話」で、良い地に落ちた「種」はやがて30倍、60倍、百倍の実を結ぶと言われたように、まことの王がその主権を完全に顕にする時、私たちの思いをはるかに超えた刈り入りの時、収穫の時が来ることを待ち望みたいと思います。

# by taste_hebrew | 2010-01-15 23:27 | 統治用語
2010年 01月 12日
詩96篇 「さばく」
שָׁפַט シャーファト


・13節「確かに、地をさばく(שָׁפַט)ために来られる。主は、義をもって世界をさばき(שָׁפַט)、その真実をもって国々の民をさばかれる(שָׁפַט)。」(新改訳)

◆王の詩篇と言われる93~99篇の一連の詩篇の中に貫いている思想は、王である主の職務が「さばく」ということです。王の統治が正しいさばきによってなされることは、私たちにとって恩寵なのです。しかも、公正をもって、義をもって、真実をもって、そして愛をもって。

◆最初の詩93篇では、特に、王である主の風格が宣言されているのが特徴ですが、同時に、「王の御座はいにしえから堅く立ち」 (2節)、その御座は「さばき」の御座であることが、続く詩篇の中で明らかにされていきます。

◆詩94篇2節では、
①「地をさばく(שָׁפַט)方よ。立ち上がってください。高ぶる者に報復してください。」
①「全地の裁き手として立ち上がり」(新共同訳)
と嘆願の祈りがなされています。
また、19節では、
②「さばき(מִשְׁפָּט)は再び義に戻り、心の直ぐな人はみな、これに従うでしょう。」
②「正しい裁きは再び確立し、心のまっすぐな人は皆、それに従うでしょう。」(新共同訳)

◆詩95篇では、さばきを表わす語彙はありませんが、荒野の40年間、贖われた民の第一世代が「心の迷う民、わたしの道を知ろうとしない民」に対して、怒って誓ったことば「確かに彼らは、わたしの安息に、はいれない。」が記されています。

◆詩96篇10節後半の
①「主は公正をもって国々の民をさばく(דִּין)。」(新改訳)
同篇の13節
②「確かに、地をさばく(שָׁפַט)ために来られる。主は、義をもって世界をさばき(שָׁפַט)、その真実をもって国々の民をさばかれる(שָׁפַט)。」(新改訳)
詩篇96篇では、特に、主が、地を(諸国の民を)さばくために「来られる」ということが強調されている。

◆詩97篇
①2節後半
「義とさばき(מִשְׁפָּט)が御座の基である。」(新改訳)
「正しい裁きが王座の基をなす」(新共同訳)
②同節、8節
「シオンは聞いて、喜び、ユダの娘たちも、こおどりしました。主よ。あなたのさばき(מִשְׁפָּט)のために。」

◆詩98篇
9節「確かに、主はさばき(שָׁפַט)のために来られる。主は義をもって世界をさばき(שָׁפַט)、公正をもって国々の民を、さばかれる(שָׁפַט)。」

◆詩99篇
4節「王の力は、さばき(מִשְׁפָּט)を愛する。・・あなたは、ヤコブの中で、さばき(מִשְׁפָּט)と正義を行われた。」

◆このように、王としての職務は正しく、公平に、真実をもって「さばく」ことにあります。ソロモンがギブオンで王として即位したとき、主は夢の中で彼に現われ「あなたになにを与えようか。願え。」と仰せられました。ソロモンは「善悪を判断してあなたの民をさばくために聞き分ける心をしもべに与えてください。」と言いました。この願い事は主の御心にかなったと記されています。

◆ソロモンに与えられたさばきの知恵は、ふたりの遊女の訴えをさばいた話(列王記第一、3章16~27節)―「どちらが本当の母親か」ーによく描かれています。




# by taste_hebrew | 2010-01-12 08:04 | 統治用語
2010年 01月 08日
詩95篇 「造る」
עָשָׂה  アーサー

・5節「海は主のもの。主がそれを造られた。陸地も主の御手が造られた。」
・6節「来たれ。・・私たちを造られた方。」

Keyword;「造る」  do, make,

◆ヘブル語では「創造する、造る」ということばにバーラーבָּרָא(bara')があります。創世記の1章1節の「初めに、神が天と地を創造した。」で使われています。バーラーבָּרָא(bara')は全く存在しないところから有を生じさせる動詞です。しかし、詩95篇で使われている三つの「造られた」という動詞はアーサーעָשָׂה(`asah)です。

◆この動詞も神の創造の行為として使われます。たとえば、「神はお造りになったすべてのものをご覧になった」(創1:31)、「主は天と地を造られた方である」(詩115:1)など。また、私たちに対する様々な行為を現わす動詞、たとえば、「神である主は、アダムとエバ妻のために、皮の衣を作り、彼らに着せてくださった」(創3:21)、「エジプトで大いなることをなさった方」(詩106:21)、「主の右の手は力ある働きをする」(詩118:15~16)、「主はその望むところをことごとく行われる」(詩115:3)などに使われています。

◆このアーサーעָשָׂהが私たちのためになされるとき、それは恩寵用語となります。かつて私はあることで信仰の危機を感じたことがありました。自分の惨めさのゆえに希望を持てないで苦しんでいた時がありました。そんな時、ある歌を歌いながら神の慰めの力を感じたのです。その歌とは以下のように力強い神への告白を歌っているものでした。

主は道を日々造られる  何もないように思えるときでも 
主は御手で 御許で支え 新しい明日を 主は道を造られる
天と地が滅び失せても  主のみことば 滅びず
荒野に道を 砂漠に川を 今日も造られる 
(Don Moen “God Will Make A Way”)

◆はからずも、この歌詞にも「造られた」ということばがあります。英語でGod will make a wayです。主が造られたのは「荒野における道」「砂漠における川」です。そして今もその神の恩寵の行為は継続しているのです。この歌の出典はおそらくイザヤ書43:19です。「見よ。わたしは新しいことをする(עָשָׂה)。今、それが起ころうとしている。」と宣言されて、「荒野に道を、荒地に川を設ける」と約束されています。

◆神の恩寵的な創造の行為は、私たちに希望を与えます。それゆえ神を待ち望むことができるのです。詩95篇は礼拝とはいかなることであるかを私たちに教えている詩篇です。そこにある「主が・・を造られた」という宣言は、神が、単に、自然界や私たちを造られたという静的なイメージではなく、常に、私たちとかかわり、みこころを実現させていくところの神の創造的・恩寵的行為をされる「行動の神」であるとの告白なのです。

# by taste_hebrew | 2010-01-08 14:08 | 統治用語
2010年 01月 07日
詩94篇 「平安を賜う」  「支える」
שָׁקַט  シャーカト
・13節「わざわいの日に、あなたがその人に平安を賜わるからです。」(新改訳)
סָעד  サーアド
・18節「『足がよろめく』」とわたしが言ったとき、主よ。あなたの慈しみが支えてくれました。」 (新共同訳)

Keyword;
① 「平安を賜う」  give rest, grant relief 76:8/83:1/94:13
② 「支える」 sustain, grant support 18:25/20:2/41:3/94:18/104:15/119:17

◆詩93篇からはじまる「王の詩篇」、その最初の93篇ではその王の風格と、その支配(統治)の確実性、堅固性、永遠性、真実性がたたえられています。それは天的現実においてはそうです。しかし、地的現実においては必ずしもそうは見えないという信仰のゆらぎをいつの時代の信仰者も経験するに違いありません。続く詩94篇1節では、そうした地的現実の中で、「復讐の神、主よ、光を放ってください。」と祈っています。「光を放つ」とは、王としての統治が正義をもって執行されるようにという意味です。天的現実と地的現実の狭間のなかで、作者の信仰は練られて行きます。つまり、神の恩寵をその中で発見していることがこの詩篇の魅力です。

◆そのひとつは、13節にある「わざわいの日に、あなたがその人に平安を賜わる」という恩寵です。「平安を賜わる」と訳されたシャーカトשָׁקַט(shaqat)は、旧約で13回、詩篇では3回(76:8, 83:1, 94:13)とわずかです。「落ち着きを与える、平穏を与える、沈黙を与える、やすらぎを与える」といった意味です。イザヤ書の有名なみことば30章15節にある「立ち返って静かにすれば、あなたがたは救われ、落ち着いて、信頼すれば、あなたがたは力を得る」の「落ち着いて」というところに使われている言葉と同じです。しかし多くの神の民たちは危機的状況を前にして、「落ち着く」ことができずに、人間的画策へと走って行ったのでした。

◆もうひとつは、18節にある「「『足がよろめく』」とわたしが言ったとき、主よ。あなたの慈しみが支えてくれました。」 (新共同訳) という恩寵です。「支えてくれた」と訳されたサーアドסָעַד(sa`ad)は、旧約で12回、詩篇では6回です。「支えた」(関根訳)、「支える」(岩波訳)、「支えて下さった」(典礼訳)、新改訳だけが「ささえてくださいますように」と嘆願形です。これは前置詞のイムאִםをどのように訳すかによるようです。

◆作者は17節で「もしも主が私の助けでなかったなら、私のたましいはただちに沈黙のうちに住んだことでしょう。」と述べていますから、おらく作者は奈落の底に落ちるような経験をしたのかもしれません。「沈黙のうち」とは、「陰府(よみ)」のことです。作者は、奈落の底に落ちる私を神の永遠の御腕をもって支えてくださったことを思い起こしています。私たちの人生で奈落の底に落ちるような経験は滅多にあるわけではありません。
不条理な苦しみの中で信仰が揺らぐことなく貫き通すには、神の支えが必要なのです。

# by taste_hebrew | 2010-01-07 09:06 | 賦与用語
2010年 01月 05日
詩93篇 「王となる」
מָלַך  マーラク

・1節「主は、王であられ、みいつをまとっておられる。」(新改訳)
・1節「主こそ。・・」 (新共同訳)

Keyword;「王として支配する、統治する」  reign, to be king, to rule, to make king
47:8/93:1/96:10/97:1/99:1/146:10

◆新改訳、新共同訳では「王」「王であられ」とは、一見、名詞のようにみえますが、実は動詞が使われています。NIV訳ではreigns つまり、主が王として支配する、統治する、君臨するという意味です。

◆旧約では動詞のマーラクמָלַך(malak) は347回、詩篇ではわずかに6回です。しかし、すべて神に対して用いられています。ちなみに、名詞形の「王」メレクמֶלֶך(melek)は旧約全体で2,523回、詩篇で神が王(King)として用いられいるのは22回です。「王国kingdom」マルフートמַלְכוּת(malkhut)は旧約で91回、詩篇は6回(45:6/103:19/145:11, 12, 13, 13)です。

◆ところで、神が王として支配されることがなぜ恩寵なのかといえば、それは他の国々のように専制君主的な王ではなく、ご自身の民に対して、いつくしみと公正と正義をもって治められるからです。詩93篇では王の風格について語られていますが、「王国」(kingdom)という語彙が最も多く登場している詩145篇では、「私の神、王よ。わたしはあなたをあがめます」(1節)と個人的に告白され、この王国の統治の特徴がいかなるものであるかをよく言い表しています。たとえば、

・8節「主は情け深く、あわれみ深く、怒るのにおそく、恵みに富んでおられます。主はすべてのものにいつくしみ深く、そのあわれみは、造られた者の上にあります。」
・14節では「主は倒れる者をみなささえ、かがんでいる者をみな起こされます。」
・15節では「すべての者は、あなたを待ち望んでいます。あなたは時にかなって、彼らに食物を与えられます。」
・16節では「あなたは御手を開き、すべての生けるものの願いを満たされます。」
・18節では「主を呼び求める者すべて、まことをもって主を呼び求める者すべてに主は近くあられる。」
・20節「すべて主を愛する者は主が守られる。」

◆王の統治は「すべてのものに」「みな」「すべてに」に及ぶことが印象的です。しかもその王国は、永遠にわたる王国、輝かしい栄光の王国として、その統治が代々限りなく続きます。キリストこそ私たちの永遠の王の王です。この方の統治は私たちにとってのうえなく喜びとなるのです。

# by taste_hebrew | 2010-01-05 21:28
2009年 12月 28日
詩92篇 「(油を)注ぐ」
בָּלַל バーラル

・10節「あなたは私の角を野牛の角のように高く上げ、私に新しい油をそそがれました。」(新改訳)
・11節「あなたはわたしの角を野牛のように上げさせ、豊かな油を注ぎかけてくださることでしょう。」(新共同訳)

Keyword;「そそぐ、注ぎかける」  poured upon me 92:10

◆詩45篇でも「(油を)そそぐ」という恩寵動詞を味わいましたが、ここ詩92篇でも「油をそそぐ」という動詞が登場します。同じく「そそぐ」と訳されていますが、詩45篇と詩92篇では原語が異なっています。詩45篇の「(油を)注ぐ」と訳された原語はマーシャフמָשַׁח(mashach)で、旧約で70回、詩篇には45:7と89:20の2回、「任職の油を注ぐ」という意味で使われています。ところが、詩92篇の原語はバーラルבָּלַל(balal)で、旧約では43回、詩篇ではここ1回のみです。これは、あるものに混ぜて、あるいは添えてささげられる油を意味してしいます。

◆バーラルבָּלַל(balal)は、モーセの幕屋における主への「穀物のささげ物」に関係があります。罪のいけにえ、罪過のいけにとは異なり、自発的なささけげものですが、それは小麦にオリーブ油を混ぜたものです。それは主に祭司たちの日々の糧となりました。小麦は穀物の中でも貴重なものであり、そして大切な食糧です。人の手のわざを通して、穂を摘み、脱穀して小麦粉として製粉し、それに油を混ぜて(mix)すぐに焼いて食べる事ができるようにしてささげられものです(レビ記2:4, 5/7:10,12/9:4、民数記7:13, 19, 25, 31, 43, 49, 55,61, 67, 73, 79/15:4, 6, 9/28:5,9,12, 13・・等を参照)。バーラルבָּלַלの本来的な意味は「混ぜる」です。そこから「添える」という意味が派生します。

◆19世紀の英国の偉大な説教家、牧会者、伝道者として有名なC・H・スポルジョンが精魂を傾けて、詩篇150篇のすべてを一篇ももらさず、1節ごとに研究し、解説をした著作The Treasury of Davidがあるようです。日本ではいのちのことば社から「ダビデの宝庫」としてⅠ・Ⅱ・Ⅲと出版されていますが、それは全150篇のうち42篇分を抜粋したものです。その中にある詩92篇10節のスポルジョンの解説は次のようにしるされています。「・・野牛は、古代人の間では不屈の力を示す場合に好んで用いられる象徴でした。詩篇作者はそれを自分の象徴として取り入れています。・・『私に新しい油をそそがれました。』強くしてくださることに、さらにさわやかと栄誉が添えられます。古代の宴会で客に香油が注ぎかけられたように、聖徒は神の恵みのそそぎかけによってさわやかにされ、喜んでいます。こうした栄養のゆえに、聖徒は悪者のように滅びないのです。・・」(西河直茂訳「ダビデの宝庫Ⅲ」、118頁、いのちのことば社、1993)

◆スポルジョンの解説では、ここの「新しい油」を任職の油ではなく、力に添えられた油、すなわち、神の歓迎の喜びとしての油(香油)としています。これは彼が「そそぐ」という原語を調べたからではないかと思います。大衆伝道者であった彼がいかに緻密にみことばと向き合い、それを味わおうとしたかを垣間見せてくれます。

# by taste_hebrew | 2009-12-28 23:20 | 賦与用語
2009年 12月 19日
詩91篇 「おおう」
סָכַך  サーカフ

・4節「主は、ご自分の羽であなたをおおわれる。あなたは、その翼の下に身を避ける」(新改訳)
・4節「おのが羽でかれはあなたをかばい、・・・」(岩波訳)

Keyword;「覆う」 cover, overshadowing, spread,   5:11/91:4/140:7

◆4節で「おおわれる」と訳されたサーカフסָכַך(sakhakh)は、旧約で18回、詩篇では3回しか使われていない動詞です。ヘブル語にはもうひとつ罪をおおう、失敗や過ちを覆って下さるという意味の恩寵動詞カーサーכָּסָה(kasah)があります(詩32篇参照)が、カーサーの使用頻度は旧約で152回、詩篇では17回とサーカフに比べると圧倒的に多いのです。しかし使用頻度の少ないサーカフסָכַך(sakhakh)ですが、実はとても重要な意味合いを有しています。

◆サーカフがはじめて聖書に登場するのは出エジプト記25章20節です。ここには幕屋についてに語られていますが、特に、幕屋の至聖所における契約の箱についての言及の中で、ケルビムが互いに向き合って、その翼で「贖いのふた」をおおうようにしなければならないとしるされています。このサーカフסָכַךが契約の箱と関連して使われている箇所は6回(出25:20/37:0/40:3, 21/Ⅰ列王8:7/Ⅰ歴代28:18)あります。翼をもったケルビムの像は、幕屋の垂れ幕にも織りなされ、やがで神殿では壁や扉にも刻まれたようです(Ⅱ歴代3:7)。

◆契約の箱の「贖いのふた」の両端に互いに向かい合うように置かれた純金製のケルビムは、年一度大祭司のみが至聖所に入って「贖いのふた」の部分に血を注ぎますが、その血が見られるように配置されています。また、その翼の間から神はモーセと会見し(モーセの場合は出入り自由)、語られました。そこはまた(神の臨在を現わす栄光の雲が現われる場所(シェキナー)でした。

◆詩91篇4節の主は、ご自分の羽であなたを「おおわれる」というところに、ケルビムがその翼で「覆う」という言葉が使われているのは、この詩91篇全体を意味づけるものではないかと思います。つまり、この詩篇は「守りの詩篇」と言われますが、単なる「守り」という意味だけではなく、そこに血が注がれて神と神の民がモーセや大祭司アロンを仲介として交わりを持つことができたように、キリストと一つにされた私たちもそのところで、神との親密な愛の交わりをできるようにして下さっているということです。しかもケルビムの翼を広げたところに神の栄光の雲が現わされたように、キリストにある私たちも神の臨在にあずかることができる、それが詩91篇4節の「主は、ご自分の羽であなたをおおわれる」という究極の目的だと信じます。その証拠に14~16節には「彼は、わたしを愛しているから、助け出そう。知っているから高くあげよう。呼び求めているから、答えよう。」というかかわりが成立しているのです。主の羽の覆いを心から感謝したい。

# by taste_hebrew | 2009-12-19 14:59 | 愛顧用語
2009年 12月 15日
詩90篇 「力づける」
נָחַם ナーハム

・13節「帰って来てください。主よ。・・あなたのしもべらを、あわれんでください。」(新改訳)
・13節「主よ、帰ってきてください、・あなたの僕らを力づけてください。」(新共同訳)

Keyword;「あわれむ、力づける、慰める」 comfort, express sympathy, relent
23:4/69:20/71:21/77:2/86:17/90:13/106:45/110:4/119:52, 76, 82/135:14

◆新共同訳で「力づけて」と訳されたことばは、新改訳では「あわれんで」と訳されています。詩86篇でもすでに「あわれむ」という動詞を取り上げましたが、そこではハーナンחָנַן(chanan)でしたが、詩90篇ではナーハムנָחַם(nacham)が使われています。

◆ナーハムנָחַם(nacham)は、旧約で108回、詩篇では12回使われています。詩23篇4節には「あなたのむちとあなたの杖、それが私の慰めです(נָחַם)。」(新改訳)とあります。岩波訳では「励ます」、関根訳では「勇気を与える」とも訳されています。

◆したがって詩90篇でのナーハムがנָחַם(nacham)は、「慰めてください」「励ましてください」「勇気を与えて力づけてください」とも訳すことができます。この動詞が使われているところには、ある苦しい状況の中に置かれているということが考えられます。

◆「慰めよ、慰めよ」(イザヤ40章1節)と、神が預言者イザヤに語らせたことばは、神とのかかわりをリセットして新しくすべくバビロンに捕え移された者たちに向かっての語られた回復のメ一連のメッセージの冒頭でした。「慰める」という言葉はセンチメンタルな言葉でありません。苦しみの中にあってもそこを避けることなく、まっすぐに貫かせ、歩ませる力づけと励ましを意味するいわば父性的訓練と連動する恩寵用語です。詩23篇4節の「あなたのむちとあなたの杖、それが私の慰め」と告白しているのがその証拠です。

◆新約でナーハムנָחַםに対応するギリシャ語はパラカレオー(παρακαλεω)です。やはり苦難の中にある神の慰めを意味しています。ヘブル書の著者は12章5~7節に「あなたがたに向かって子どもに対するように語られたこの勧め(παρακλεω)を忘れています。『わが子よ。主の懲らしめを軽んじてはならない。主に責められて弱り果ててはならない。主はその愛する者を懲らしめ、受け入れるすべての子にむちを加えられるからである。』・・神があなたがたを子として扱っておられるのです」とあります。自分が子として扱われているという恩寵に気づく時、主の懲らしめは励ましとなり、慰めとなり、苦しみの中を貫かせる力となります。これがナーハムנָחַםであり、パラカレオー(παρακαλεω)です。

◆使徒パウロは「慰めの書」と言われるコリント書第二で、「慰め」ということばを実に多く使っています。「気落ちした者を慰めてくださる神」を経験したパウロは、「神はどのように苦しみのときにも、私たちを慰めてくださいます。こうして、私たちも、自分自身が神から受ける慰めによって、、どのような苦しみの中にいる人をも慰めることができるのです。」(Ⅱコリント1:4, 5)と述べています。神の慰めは苦難のあるところに溢れるのです。


# by taste_hebrew | 2009-12-15 18:00 | 育成用語


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