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原語で味わう詩篇

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2010年 02月 06日

詩103篇 「あわれむ」

רָחַם  ラーハム

・13節「父がその子をあわれむように、主は、ご自分を恐れる者をあわれまれる。」 (新改訳)

Keyword;「あわれむ」  have compassion,    18:1/102:1/103:13, 13/116:5

◆「あわれむ」と訳されたラーハムרָחַם(racham)は、旧約で47回、詩篇では5回です。詩103篇では13節に2回使われています。4節「恵みとあわれみの冠をかぶらせ」では名詞のラハミームרַחֲמִים(rachamiym)-他に、25:6/40:11/51:1/69:16/77:9/79:8/106:46/119:77,156/145:9が、8節の「主は、あわれみ深く」では形容詞のラフ―ムרַחוּם(rachum)ー他に、78:38/86:15/111:4/112:4/145:8―が使われています。ラーハムרָחַם(racham)は、イザヤ書とエレミヤ書の特愛用語です。

◆このラーハムרָחַםは、実は、神の深いふところにある思いと密接なつながりをもっています。預言者エレミヤはこの動詞を31:20で次のように使っています。
「わたしのはらわたは、彼のためにわななき(ハーマーהָמָה)、わたしは彼をあわれま(ラーハムרָחַם)れずにはいられない。」(新改訳)、「わななき」と訳されたハーマーהָמָה(hamah)は、新共同訳では「胸は高鳴り」と訳されています。このハーマーの本来の意味は、水や海が「騒ぎ立つ」「鳴り響く」ことであり、それが人間に使われると「思い乱れる」「打ち悩む」「思い悩む」「呻く」「呻吟する」という意味になります。それが神に使われると、はらわたが「わななき」「胸は高鳴り」と訳されますが、関根訳では「しきりに動き」、文語訳では「痛む」と訳されています。

◆日本の神学者、北森嘉蔵師はこのハーマーהָמָהということばにこだわり、調べていくうちに神の福音の真髄に触れるものとだと気づき、「神の痛みの神学」を樹立させました。彼はこう述べています。「エレミヤ記31:20の中に一つの異常な言葉を見出して以来、私は昼も夜もこの言葉を考えつづけてきた。それは私にとっては文字通り異常な言葉であった。その語この言葉がイザヤ書63・15と関係をもつことを知るや、私はこの言葉の担う秘義にいよいよ深き驚きをもつに至った。」(北森嘉蔵著『神の痛みの神学』、233頁、講談社、1972)

◆つまり、神の「あわれみ」は、神のはらわたの痛みを伴う愛であることに気づかされたというわけです。神の愛を知った者がそれを裏切る、にもかかわらず、その者とどこまでも愛のかかわりを持とうとすることは、当然、痛みを伴います。その神の痛みはやがてイエス・キリストの十字架において、究極的な形で現わされました。神の痛みに裏付けられた神の愛(あわれみ)―それに気づかされることが、真の「主を恐れる者」と言えるのかもしれません。このように、一つのことばにこだわり、それを詳しく調べることで福音の真髄に触れる鉱脈を発見したことは、神を知ることを求める者にとって大切な学び方のなのだと教えられます。

by taste_hebrew | 2010-02-06 08:47 | 愛顧用語


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